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西の都の物語

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冬が始まるよ♪

逍遥遊

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なんだか、世間がギスギスした感じで、

これはどーも俺の時間の流れじゃねーぞー、という感じ。

まあ、こんだけの恐慌なんでギスギスしない方がおかしいのでしょうが・・・。



しかーし。

こんな時にこそムクムクわき上がってくるこの天の邪鬼気質。



キリギリスにもキリギリスの意地があるっ!!!

恐 慌 の ク ソ 馬 鹿 野 郎 。

ははっ、漏れは最後の最後までキリギリスっ!!

ざまあ見たか世界恐慌!!



くらいの勢いで遊び心満載で凍え死にする所存でございます。

むかしっから、日が暮れて、みんな帰っても、最後の一人になるまで遊んでるタイプだったんよね。



遊びといっても、金をじゃんじゃんつかったり、酒飲んで馬鹿騒ぎしたり、

女をかこってキャッキャッキャッキャしたり、ネズミーランドでワーキャー騒いだりってんじゃなく、

草花の美しさや、雲の流れ、山の緑に心を遊ばそうかな、と。

なわけで、今年の目標というか、銘は、「逍遥遊」。



「快楽主義」を極めようかな、と。

これはバッカス的な享楽主義でも、ベンサム的な功利主義でもなく、エピクロス的な倫理的利己主義の範疇の話。

簡単に言うと、精神衛生上良くないことには手を出さない。



もっとわかりやすくいえば、吉良吉影の目指した「植物の心のような生活」。

吉良の場合は「エピクロス的快楽主義」ではあっても、「倫理的利己主義」じゃないけどね。

あれは、平気で相手を殺せる、ただの利己主義者。

一番頭の悪く、原始的な主義者じゃないかな。

主義とも言えんか、本能的というか。



そんな二つを極められたら、そりゃ仙人だわ、と思わないこともないんだけれど。

今年も仙人まっしぐら、ということでw




参照
逍遥遊
編名「逍遥遊」とは、「何ものにもとらわれない自由気ままな境地に遊ぶ」ということで、自己に与えられた分というものに安住し、世俗の煩わしさから超越した悠々自適の立場に立てと主張ているものです。

エピクロス
エピクロスは、幸福を人生の目的とした。これは人生の目的を徳として、幸福はその結果に過ぎないとしたストア派の反対である。

倫理に関してエピクロスは「快楽こそが善であり人生の目的だ」という考えを中心に置いた主張を行っており、彼の立場は一般的に快楽主義という名前で呼ばれている。ここで注意すべきは、彼の快楽主義は帰結主義的なそれであって、快楽のみを追い求めることが無条件に是とされるものではない点が重要である。すなわち、ある行為によって生じる快楽に比して、その後に生じる不快が大きくなる場合には、その行為は選択すべきでない、と彼は主張したのである。

より詳しく彼の主張を追うと、彼は欲求を、自然で必要な欲求(たとえば友情、健康、食事、衣服、住居を求める欲求)、自然だが不必要な欲求(たとえば大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活)、自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)、の三つに分類し、このうち自然で必要な欲求だけを追求し、苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが良いと主張し、こうして生じる「平静な心(アタラクシア)」を追求することが善だと規定した。こうした理想を実現しようとして開いたのが「庭園」とよばれる共同生活の場を兼ねた学園であったが、そこでの自足的生活は一般社会との関わりを忌避することによって成立していたため、その自己充足的、閉鎖的な特性についてストア派から激しく批判されることになった。

このようにエピクロスによる快楽主義は、自然で必要な欲望のみが満たされる生活を是とする思想であったが、しばしば欲望充足のみを追求するような放埒な生活を肯定する思想だと誤解されるようになった。しかしこうした生活については、エピクロス自身によって「メノイケウス宛の手紙」の中で、放埒あるいは性的放縦な享楽的生活では快がもたらされないとして否定的な評価が与えられている。

倫理的利己主義
利己主義を「自分の欲望のためになら何をしてもいい」という意味とするなら、規範とはなりえない。人の物を盗むことやだますことが容認されるなら、自分も盗まれたりだまされたりすることが日常的となる。そのような社会は自分自身にとっても住みにくい社会であり、結局は自分のためにもならない。自分の幸せという目的が達成できないのであるから、これは規範として破綻している。

そこで賢い利己主義者はできるだけルールを守るようになる。尊敬を集めるために、他者のためにしかならないと思えるようなこともするようになる。したがって利己主義者もその行動からだけではそうでない者との区別はつきにくい。資本主義社会では自由な競争を認めている。弱肉強食の世界であるかもしれないが、誰しもが敗者になる可能性もあるので、福祉制度もある程度整えられる。お互い様であることを認めあった上で各自が自由に自らの幸せを追求する利己主義は、誰もが利己主義になってもその目的が破綻しないという意味で普遍化可能である。したがって「普遍的利己主義」と呼ばれる。この普遍的利己主義なら、規範になりえないと頭からは否定できない。功利主義の説く「みんなの幸せ」という目的も、「みんな」の中でさらに誰が一番大切かという疑問を考えていくと結局「自分の幸せ」が一番という考え方とほとんど違いがない。すなわち倫理的利己主義は古典的功利主義の前提であって、立派な規範だといえる。



民主主義なんてのは、最大多数の最大幸福っつーか、ベンサム的功利主義なわけだから、

倫理的利己主義の上に成り立ってるんだよな。

民主主義だー、自由主義だー、資本主義だー、それは社会主義だー、わぎゃーうぎゃーと騒ぐ前に、

一歩退いて、倫理的利己主義から説き起こせば、社会福祉と自由競争は同時に語ることが可能なのにねぇ。

枝葉で行き詰まったら、枝葉の伸びていく先じゃなく、少し戻ってなるべく幹の近くを見る。

当たり前だと思うんだけれど、無学なのと、学があっても話を結びつけられないのと、小利口で話が絡まりすぎちゃうのと、

どーにも分からない人が多いよなー、政治家には。

あいつらも、吉良と一緒で倫理的利己主義じゃなく、利己主義なんだな、ただの。
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by hot_soul | 2009-01-06 19:13 | 夜の戯れ言